地図から消えた毘沙門川 そのわけは?
今回は「毘沙門川」について書いてみたいと思います。志手に「毘沙門堂」があり、その横を流れる小さな川が「毘沙門川」(上の写真)です。
橋の欄干に川の名前が表示されています。読んでみると「住吉川」。あれ⁉「毘沙門川」ではありません。
しかし、この川がかつて「毘沙門川」と呼ばれていたことは間違いありません。そして、それが由緒正しい川の名前であったことも。
「私の故郷 『志手』風土記」という本があります。著者は園田九洲男さん(故人)。志手に生まれ育った著者が少年時代の思い出をつづったものです。
この本の「あとがき」で「できるだけ昭和20年頃の『志手』の様子を書いたつもりである」と著者は記しています。今から80年ほど前の志手の暮らしと風景が描かれているわけです。
その中に次のような回想があります。
「としんかみ(歳の神、志手、椎迫の境・毘沙門川の上流)で水遊びをすますと、村堤(かんがい用の溜池)で泳ぐ資格ができる」
「毘沙門川の流れも『としんかみ』といっていた。小さな子どもたちの恰好の水遊び場で、ハエがたくさん泳いでいて、水もきれいであった」
志手の住民がこの川を毘沙門川と呼んでいたからといって、それが正式な名称だとは限りません。地元だけで使われる通称でしかないこともありえます。
そこで地図を見てみました。大分県立図書館に収蔵されている昔の「大分市街図」です。
左の地図では「毘沙門川」、右の地図は「住吉川」となっています。なぜか川の名前が変わっています。この間に何があったのでしょうか。
(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)
69年版、72年版、74年版のいずれにも「毘沙門川」とありました。右の地図は74年版です。「毘沙門川」の表記があります。こちらは毘沙門川の名称が使われています。
毘沙門川が「住吉川」に変わって、それが定着するまでにしばらく時間がかかったことを示している。住宅地図の表記がしばらく変わらなかった理由をそう考えることもできそうです。
ちなみに、この地図にある「勢家河原」という地名は現在はありません。現在の国土交通省大分河川国道事務所の所在地を調べると、西大道1丁目になっています。
カギを握るのは昭和39年成立の河川法
ちょっと堅苦しい話になりますが、「毘沙門川」がなぜ地図から消えたか、それを説明するために書いておく必要があります。1964(昭和39)年に成立した河川法のことです。
法律の詳しい中身についてはよく分かりませんが、この法律の一番の目玉は「一級河川」「二級河川」の分類が導入されたことのようです。
河川法を巡る当時の国会審議で政府は「一級河川は『国道』、二級河川は『県道』」などと説明しています。
当時は大規模水害も多く、水防のための河川の改修工事が急がれていました。新たな河川法では「一級河川」は「建設大臣(現国土交通大臣)」、「二級河川」は「知事」と管理主体を定めて、防災事業を迅速に進めようとしました。
二級河川は知事が指定し、県が主体となって防災工事を進めます。新たな河川法に基づいて「住吉川」は二級河川に格付けされました。そして新法の下で県が行った事業の一つが「中小河川改修事業」でした。
(上の写真は志手橋付近。「二級河川」「住吉川」「大分県」と書かれた標示板があります)
「住吉川」を広める 旗振り役は行政
ところで、「県政の歩み 昭和42年版」に「住吉川」と書かれた川が、同じ頃のゼンリンの住宅地図には何と書かれていたかのかは既に見た通りです。昭和49(1974)年版でも「毘沙門川」のままでした。
一つの川に幾つかの呼び名があるのは珍しいことではないでしょう。延長6.7キロという短い「住吉川」も、志手:椎迫といった上流部では「毘沙門川」と呼ばれ、河口部では「住吉川」と名前を変えていました。
二級河川指定を機に県は川の名称を「住吉川」に統一しました。それが「県政の歩み 昭和42年版」で分かります。
行政的に「住吉川」となった後もしばらくは「毘沙門川」は「毘沙門川」のままだった。ゼンリンの住宅地図から、そう推理できます。
「いつまでも毘沙門川の名前が残っていては困る」。県がそう考えたかどうかは分かりませんが、行きがかり上、県は「住吉川」の名前を浸透させるための旗振り役を務めることになりました。
(右上の写真は西田室橋にある標示板。背後に見えるのはJR日豊線)
川は昔の川ならず 変えられた流れ
この原稿を書いている時に、長い間ほったらかしにしていた資料の中から一つのリーフレットを見つけました。それが「住吉川」(下の写真)。作ったのは大分県土木建築部河川課大分土木事務所です。大分県が住吉川の改修事業について説明したものです。いつもらったのかは忘れました。
「明治時代の大分市と住吉川」(上の写真)という簡単な地図もあります。これを見ると、明治の昔から「住吉川」は「住吉川」であり、それがただ一つの呼称だったとも思ってしまいます。
「事業の経緯」(左の資料)の中で「この川は古くから毘沙門川と呼ばれ、かんがい用水に利用するなど人々に親しまれていたが…」とあります。
その親しまれていた「毘沙門川」がどうなったのか。あとの説明はありません。ともかくも県の河川改修事業とともに「毘沙門川」は「住吉川」に生まれ変わったわけです。
確かに改修事業によって新しい川は昔の川ではなくなりました。さきほど紹介した「明治時代の大分市と住吉川」の地図には、現在の住吉川の流れが赤線で示されています。改修前の住吉川が青線のようです。
川の流れがJR日豊線付近から変わっています。つまり今の川は昔の住吉川や毘沙門川でなく、新しい「住吉川」なのだという解釈もできなくはない、ともいえます。
「ふるさとの川」のイメージは遠く
大分県によると、住吉川の改修工事は1968(昭和43)年度から1982(昭和57)年度にわたり総事業費は49億円になりました。時間もお金もかかっています。
工事によって河床(川底)が約2メートル掘り下げられました。川幅が広げられた箇所もあるようです。改修の結果、時間雨量70ミリの雨が降っても大丈夫なようになったといいます。住吉川は水害に強い川に生まれ変わりました。
それ以前の住吉川(毘沙門川)周辺は浸水被害が多かったようです。川のよりも、その周囲の土地が低いので川の水が周囲にあふれやすいという構造になっていました。
田園地帯だった昔なら、少しぐらい川の水が周囲にあふれてもたいして問題にならなかったかもしれません。しかし、住吉川(毘沙門川)周辺では昭和30年代後半(1960年代)以降に宅地開発が進み、家が立て込んできました。
すると、浸水被害が大きな問題になります。ということで1968(昭和43年度)から住吉川の改修事業が始まりました。
改修の結果、園田九洲男さんの「志手風土記」に登場する毘沙門川は姿を消しました。川は小さな子どもの水遊び場ではなくなりました。コンクリートで固められた現在の川は、園田九洲男さんが回想する「ふるさとの川」のイメージとはほど遠いものです。
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